冬になると、うちではルイボスティーを作る。
特別な理由があるわけじゃない。ただの習慣。寒いから、体に良さそうだから、なんとなく「ちゃんとした生活してます感」が出るから。
で、私は毎回作る。黙って。何も言われなくても。
問題はここから。
夫は、それを飲む。遠慮なく。ゴクゴクと。
そして――飲み切る。
……飲み切るだけ。
そう、新しいのは作らない。
いや、別にさ?
「作れ」なんて命令してないよ?
「私の仕事」なんて一言も言ってないよ?
なのに、なぜかポットが空になると、その存在自体が“なかったこと”になる不思議。
ポットが空。
夫は気づいてる。絶対気づいてる。
だってフタ開けて、コップ傾けて、出なかった瞬間の「……」って間、あれ何?
あの沈黙、世界で一番無責任な沈黙だと思う。
そして何事もなかったかのように去る。
作らない。
報告もしない。
「なくなってたよ」の一言もない。
つまり何か。
私が気づいて、私が洗って、私がティーバッグ入れて、私がまた作る前提。
もうこれ、ルイボスティーじゃなくて私の労働力の抽出液じゃん。
こういうと「細かい」「気にしすぎ」って言われがちだけど、違うの。
これは“お茶”の話じゃない。
日常の中に散らばる「当然でしょ?」の積み重ねの話。
しかもさ、これが一回や二回じゃないから腹立つのよ。
毎冬、毎日、毎回。
何年も。
気づけば私の中では
「この人は一生、補充しないタイプの人間」
っていうレッテルが静かに育ってる。
で、ある日突然爆発するわけ。
「なんでルイボスティー作らないの?」
って聞いたら、
「え、気づかなかった」
って返ってくる未来まで見える。
気づかなかったんじゃない。
気づかなくていい立場に甘えてるだけ。
もういっそ、
・空のポットを眺めながら人生について考える
・ルイボスティー断ちして夫の反応を見る
・自分専用のマイボトルを導入して完全別行動
このへん検討したい。
たかがお茶。
されどお茶。
ポットが空になるたび、私の中の何かも一緒に冷えていく冬です。
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